学童の日常 ~ある日のケンカの仲裁話~
どぅも、KAITOです。
本日初勤務の方に早速試練が。
子供同士の諍いの仲裁に入ったが一向に収まる気配がない。しばらく様子を見ていたが、5分以上膠着状態、気まずい空気が続く。
バトンタッチする機会を見計らう。
「お話、聞いても良いですか?」と初先生、トラブってる子たちに声掛け。
AがBを押した、Bはそれが許せない。Aは真剣に謝ったが、それでも「聞こえなかった」と許す気配のないB。
Aは2回も真剣に謝ったのに許してくれなくて、それでさらに悲しい気持ちに。
Bは自分の許せない気持ちに折り合いがつかないで無言になってしまっている。
「Aは謝れたんだ。もう良いよ。落ち着いたら遊ぼ!」
「B、Aは確かに謝ったって初先生は言ってるし、許してあげられないかな?どうしても許せないというなら、それはそれで良いよ。ケンカになった時は、許せる時もそうでない時もあるからさ。」
「もし、許せるようになったら、一緒に遊ぼうよ」
そして始まる仮面チャンバラ大会。
「さあ!かかって来なさいヨォ〜!!!」
おどけて、舞って、おバカなオッさん、弱々剣士を演じました。
Aも、Bも、ホントのところはケンカを乗り越えて一緒に遊びたかった。でも、どうしても折り合いがつかない事が、時にはある。
そんな時は、一旦話し合いを打ち切って、体を動かしてみる。忘れてみる。
すると、クソ真面目に考え込んでいたことが、実はとてつもなくどうでも良い事だった(語弊がある書き方ではあるが)という事に気づく事がある。
隙だらけの弱々モードのおっさん剣士のあちこちをポコポコ打ってくる子供たち。
Aも、Bも、いつの間にか一緒にポコポコ打ってくる。
「そうだ、それでいい。心の葛藤、暴れる感情の矛先を剣に乗せろ」
↑この心の声は中二病丸出しですが、実際に、それ迄膠着していた空気はオレンジ色に変容した。
子どもも大人も、その場で完全に「寛解」させなければいけない、そうするべき問題は、基本的にないと思っていて。
焦燥に駆られて「形だけでも解決したようにしたい」思いで解決した(つもりの)ものは、実際には何も解決していない事が多い。
むしろ、双方の心に「納得していないのに無理矢理言うことを聞かされた」という呪いとも言える記憶のしこりを残す。
かといって、起きたトラブルから逃げるばかりで、そのまま忘却し、学びを得ず同じトラブルを繰り返すのも考えものだが。
「大人が先回りばかりして、言うことを聞かせる」指導ばかりしていると、大人の顔色ばかり伺って動く、主体性のない、問題が起きても誰かの助けを待つ人となる未来が待っている。
心のダメージに意識が持っていかれ、学びが薄くなるよりは、なぜそうなったのかな?と考える余地、余白を持てる指導をこれからもしていきたい。
↓過去の朗読作品のリンクです。おうち時間のお供に、よかったらご視聴よろしくお願いします♪
「桜と最後の嘘」(13:04)
「母さんのふり」(07:18)
「親父からのタスキ」(10:47)