【(閲覧注意)試練オブ試練】
どぅも、海渡です。
朝、昨日駆逐した蜂の巣の周囲の様子を見に行ってみたら、ま〜だブンブン飛んでいて…
「ナンダァ〜〜?!一体どこから…??」
と、蜂の飛行周回軌道をよくよく観察してみると…
有りました。もう一つ。植木の枝に擬態して見え難いが、むき出しになっているシャワーヘッド。
しかも昨日駆除したものよりも少しデカい。
職場より少し離れた位置に在るけれど、蜂の飛行圏内に余裕で入っている。
この巣も駆除しなければ、子供たちや保護者の方、CLUBメンバーの皆が万が一やられてからでは遅い。
「(心の中で)駆逐します。」
昨日と同じく、
円を描くように駆除スプレー散布。
⇒刺されない様に迅速に避難、蜂の動きが鈍くなったタイミングで巣を駆除。
⇒戻りバチ対策の為、巣と蜂の死骸をネズミ捕り用の粘着シートに張り付ける。
刺される事なく駆除、完遂。
あらためて見るとマジで、デカい。
昨日に比べたら冷静に対処できた。
コレでしばらくはアシナガの姿を見る事も無いだろう。
毎年6〜8月はスズメ・アシナガ蜂の巣が大きくなり、活動が活発になるそうなので、皆さんもお気をつけて。
アシナガは攻撃性がそこまで高くはなく、自主的に駆除出来ますが、スズメバチは凶暴らしい&巣のサイズが15センチを超えると素人では手に負えないらしいので、住まいや移動ルートの近くで見つけたら、必ず役所に連絡しましょう。
では、また。
【(閲覧注意)人生で初めて、デカい蜂の巣駆除をしました。】
どぅも、海渡です。
以前から職場の近くをでっかいハチがブンブン飛んでいたので、役所に連絡。業者を呼ぶ事に。
「スズメバチ」であれば駆除費用は掛からないけど、「アシナガ」だと自己負担となるらしい。
たしかに攻撃性はスズメバチが最強なのはわかるけど。
毒の強さはアシナガも変わらない位強いはずなのに…??何でやねんと思いつつも。
業者の方が到着。調査してもらった結果「アシナガ」と判明。
巣のサイズは想定14センチと中々のサイズ。
「このサイズで費用出してもらうのは申し訳ないなあ。自分で駆除も出来ないことはないです」
と業者のおっちゃん。
駆除の手順を懇切丁寧に伝授して下さったので、自分でやってみる事に。
おわかり頂けただろうか?
空洞のある四角柱の鉄骨の中に、横長いシャワーヘッド型の巣が…!!
巣の中には羽化待ちの幼虫と、働き蜂の群れ。
子供たちに何かあってからでは遅いので、「南無三!」と駆除開始。
蜂用の殺虫スプレーを一気に散布!
その後トングで鉄骨から巣を掻き出そうとするも、蜂の巣のサイズがデカ過ぎて引っかかる…出てこない…!!!
四苦八苦していると周りに3.4匹のアシナガバチがブーーン!!と近寄ってきた!
危な!避難避難!
スプレーを蜂に噴射しながら退避。
機動戦士ガンダムに出てくるカイ・シデンの「来るな!来るなよおぉー!!」のシーンの気持ちがよく分かります←わかる人にはわかる
しばらく脳内で作戦練り直し。
蜂が離れたのを確認し、また巣の目の前へ。
迅速に鉄骨内部で巣をトングで一刀両断し、サイズを細かくして掻き出す作戦に変更。
蜂用スプレーの水分を吸ってより強固になった蜂の巣は両断できなかったものの、サイズを縮小させる事に成功。そのまま掻き出した。
で、デカ過ぎる…こんなの近くにあったんか…怖。写真では分かりにくいけど、恐らく15センチくらいあります。
そして、蜂の巣といくつかのアシナガの死骸をネズミ捕り粘着版に設置。こうする事で、巣に帰ってきた"戻りバチ"もまとめて駆除できると。
刺された時のリスクを考えるとなかなか怖かったですが、無事に駆除完遂。
子供たちの安全の為に、役に立てて良かったです。
では、また。
ブレードランナー2049が眠たかった事についての自己洞察
どぅも、海渡です。
アクセス数カウンターをチラ見したら、17000回アクセスを超えていました。
いつもこんな不定期かつ自己満足日記的なblogにアクセスして下さり、ありがとうございます。
今後も、私らしさと読み手の方の「ウダカは今こんな事考えてるのか〜ふーん」だったり、
「そういう考えもあるね〜へぇー」に応える事を両立するような記事作りを目指したいです。
今後とも、気楽に、気長に、応援よろしくお願い致します。
さて。
先日ブレードランナー2049を観ました。やっと。
(2017公開)
感想としては、30年の時を経て、名作の正当続編を作る事がいかに困難か、そして過去作を観て感動した全ての人達に対して、納得させられるものを作る事が、そもそも不可能なのかが非常によく分かる作品。
私は視聴中何度も眠たくなってしまったので3回に分けて観ました。映画館で観なくて良かった。確実に寝てたわ。
で。
なぜこんなに眠たくなってしまうんだろう?と自己洞察してみた。
大体の場合において、
・ストーリー構成がつまらない
・俳優の演技が下手
・キャラクターに共感できない
この3つの要素が当て嵌まると眠たくなってしまうのですが。
ストーリーも面白いし、前作の要素を「綺麗に」引き継いでいるなあと感じるところも多かった。
ライアン・ゴズリング演じる主人公の悲哀に満ちたキャラクターもとても「巧み」で、魅力的だった。
ではなぜ?
それは三つめの「キャラクターに共感出来ない」が肝かなと結論付けました。
そもそもブレードランナー(1作目)の魅力って何なのかなと考えた時、「近代的建造物(スチームパンク的な世界観の作り込みがエグい)を取り巻く生々しい人間×レプリカント模様」と。
「(観客にとって)登場人物がレプリカントであるか人間であるか分からない、共感させられ、裏切られる(レプリカントは人間ではない、人工物であるという事実)関係である事」と思っていて。
その二つの要素があまりにも「綺麗で」「整えられていて」「巧み」過ぎているからなのかな?
と思い至りました。
いやいや、だからこそブレードランナーの続編たり得るのだろう?とツッコミが入りそうなのですが(笑)
街にチラホラ在るCGやネオンの広告のリアリティであったり、ジョー(主人公)の恋人役のシステムややり取りさえも。
非常に巧みなのだけど、どうしても「共感」に至らずシーンが展開していく様に感じてしまう。
それが監督・プロデューサー側の意図だとしたら、まんまと引っかかっているので、つまりはこの映画を楽しめているとも言えます(笑)
ただ、初代ブレードランナーにはこの「レプリカントの人間らしさ、生々しさ」「人間か、レプリカントか。その差異がもたらす運命への影響力とは」「その運命をどう捉え、闘う・或いは受け入れるか」というテーマに対するバランスが、異常と言えるほど上手く構成されている、という事を再認識させられました。
とはいえ、それぞれのシーンで「うおぉ、エモいなあ」と感じる所もあり、眠くなったけど最後には「良い映画観たなあ」と感じさせられました。
特に、愛する相手(と認識している機械)と「精神的に」繋がっているし、触っているのに「肉体的に」は繋がっていない、触っていない。
レプリカントであるのに、いや、レプリカントであるからこそ、その「感覚の乖離」を深追いし、埋め合わせする為に様々な技術や方法を使う場面が、切なさ120%で良いなあ。なんて。
まとめると、腐ってもSF映画金字塔と呼ばれる作品の正当続編です←
まだ未見の方は、是非。
では、また。
うた遊びの会の振り返り。大切な気づきメモ。
どぅも、海渡です。
今日は久しぶりに開かれた
「JAMJAMうた遊びの会」
に参加してきました。
写真は今回降り立った乗り換えの駅。
ちょっち前に自作の仮面(未完成)に
「小平」さんて名前を付けたばっかしなので、小平には妙な親近感が湧いており、今回もどうやら引き寄せてしまったようです。
↑小平さん途中経過。怖。
そして、始まるimproと歌・piano 生演奏のセッションの時間。
ピアニストのTくんが来る前に身体を使うアップ・音階練習などをやって。
Tくん合流後はひたすら「実践!」な2時間。
即興で役の人物の背景と、グループならば共演者との関係性、「お題」的なものを決めて。
Tくんに1.2音の「ヒントの音」を貰って、即興で歌詞を作りながら、全ての言葉を音に乗せていきます。
こんな贅沢な時間あるだろうか?いや、ない。
本当に毎回楽しく、クリエイティブな時間。
振り返ると反省というか
「こうだったらもっと楽しめた、相手役の方・ピアニストTくんを楽しませてあげられた」
と思うことはたくさんあるのだけど…
総じて言うなれば
「自分の歌詞の語彙・音楽のリズムのスケールの持ち玉がもっとすぐに引き出せる、使える状態でありたい」
ということ。感度、あげておきたいねって。
即興をする中で、
せっかく良い音を貰っても、テーマや役をもらっても、良い流れを作れそうな予感がしても。
そもそもの「基礎・地盤」が脆弱なところに建物は立たないのと同じく。
もっともっと基礎を固める努力が必要不可欠に感じた。
・普段からヒントを貰う行動
⇒ジャンル問わず幅広く音楽を聴く、味わう。
様々な音楽の構成や、singerの工夫をマネする。継続して良質な、影響力の高い映画を観る、本を読む。
・なぜ?どんな風に応用できるの?
⇒なにがどの様に使えるかを考えるのでなく、まずはinputを継続する。
いつの間にか引出しの中身になっている事もある。
過去に歌唱指導の先生に「とにかく歌え。下手くそでもなんでも良いから数をこなして、好きなものを深めたり、苦手なことを見つけ、克服して、自分という【楽器】を育てて。」と教わったけど、本当にそう思う。まず数をこなさないと見えない世界が有る。
あとね。
今日の時間を過ごしている中でも思ったのだけど、今のお仕事「子どもと長時間共に過ごす職業」というのが、クリエイティブな時間にとってとても良い作用を及ぼしているなあ、と感じたんです。
プロとして俳優をやっているだけの時、私はいつも強い自責と他責の念が付き纏っていた、それに囚われていた気がするんです。
「あそこがもっとこうすればお客さんに喜んで貰えそうだな」
「でも自分にはこれが足りない、もっとこうあるべきだ、まだまだだ。やるぞ」
みたいな、昔から向上心の高さは相変わらずなんですが。
その副作用として他人にも同じ様に「自己課題を押しつけている」自分がいた気がするんです。
そんなこと、しなくていいのに。
「わたしはこれだけやっている。あなた(たち)ももっとやりましょ」
みたいな。
勘違いも甚だしいというか(笑)空回りしている時期あったなあ。
今は自分に対しても、他者に対しても。前に比べると「今の自分のベストを尽くそう」「失敗してもOK」「良いもの、できたら良いね」と。
まず「そもそも過剰な期待をしない」事と、
「クリエイト」どうのこうの以前に、
【安心して相手や自分にとっての挑戦という名前のプール(宇宙)に飛び込める環境作りをしよう】
【互いにとっての気持ちいい時空間作りをしよう】
というメンタリティーが、以前よりも高まってる様な気がします。
それは子ども達と関わる上で、普段から周りの方々や自身が気をつけている事であり、それが習慣化した結果なんだと思いますが、クリエイティブな時間においても非常に重要なことだとあらためて認識しました。
そういったメンタリティーが土台にあるおかげで、子どもたちの「あそび」も不安・不満なく楽しめているのだろうと思っています。
子ども達と遊んでいる時の「発想力・応用力」そして何より「今ココ(瞬間瞬間に没頭する・生き抜く)力」には毎回驚かされるばかりですが、それにはやはり、その場における心身の安全性(適度なプレッシャーがある状態)、楽しむための空間作りが大切なポイントなのだと。
明日からの保育の為の学びも得て、ホクホクな感じです。ありがたや。
では、また。
【運び屋・グリーンブックを鑑賞して繋がった事】
どぅも、海渡です。
最近見た映画。【運び屋】と【グリーンブック】。
「クリント・イーストウッド」「トム・ハンクス」「アンソニー・ホプキンス」は、俳優としての心の師であり、目標であります。
二つの映画を通じて、最近考えている事と繋がる事をさらに考えていて。
「時間は有限で、金より価値ある財産であり、自分以外の誰かに簡単に渡すべきものではない」
(いつでもスマホばかり気にしていて、目の前の人や物、環境に目を向ける意識が抜け落ちている。ある種スマホの奴隷。)
という事柄と。
「効率的・コスパ・断捨離・スマート化・生産性という言葉が絶大な支持を得ており、今後も更にその勢いは増していく一方で。
人間・人間同士の関係は「効率的」ではなく、複雑かつ有機的に出来ている。
むしろ非生産的・非効率なものである事は変わらないし、変えられない。
各々が時間を掛けて(投資して)、歩み寄り、育む必要がある。
(故に、子どもたちへの教育をより洗練させるという事=効率化・何らかの結果、成果を前提とした仕組み化(子ども本人の性質、特徴に合わせてでなく、他者との差異を感じさせる取組み方)に直接的に結びつけるのは、実はとても危うい考えである。
数字、評価ばかりの物差しで他人の価値を計る、他者へのさもしい、卑しい関わり方を覚え、捨てられなくなる人を醸成する原因となる。)
なぜなら人間には感情があり、個々の遺伝子・記憶・性質があり、生物だからである。
その【当たり前のような事】が理解出来ない、あるいは理解しようとせず、さらに深刻化した場合、無視したり、目を背けようとする。
それにより、個人的考えや思想を強固にするばかりで、自責・他責の怒りや哀しみの念に惑う人が未来には更に激増するだろう」
という、やや悲観的な推論も。
だからこそ、マインドフルネスだったり、自己啓発系のセミナーやら本やらがバカみたいに売れるんだろう。
イーストウッドの映画は「前時代的」に見えるが、実は今最も必要な「人間たちがついぞ忘れがちな、普段から大切にしておいた方が良いもの」を思い起こしたり、考え直したりする機会をくれます。
やや説教くさいシーンもあるけれど、ご愛嬌で(笑)
グリーンブックは実話に基づいたお話だそうで。価値観・アイデンティティーの全く違う2人の旅路。「多様性」という言葉が孕む暴力性(多数・少数派は分断・差別を無くす為に、理解を深めるべきである)について、非常にモヤモヤさせられた。
先人が築いた歴史・文化は非常に強力な呪縛の鎖のように、私達のアイデンティティを形成する過程(生活)に組み込まれていて、それを変化させるのにどれ程意識的な学習、実践、修練が必要かを痛感する。
本日はここまで。
↓過去の朗読作品のリンク
「桜と最後の嘘」(13:04)
「母さんのふり」(07:18)
「親父からのタスキ」(10:47)
最近頑張って更新してるYouTubeちゃんねる。
https://youtube.com/user/udaka1216kaito
良かったらご視聴、channel登録、高評価よろしくお願いします。
では、また。
学童の日常 ~ある日のケンカの仲裁話~
どぅも、KAITOです。
本日初勤務の方に早速試練が。
子供同士の諍いの仲裁に入ったが一向に収まる気配がない。しばらく様子を見ていたが、5分以上膠着状態、気まずい空気が続く。
バトンタッチする機会を見計らう。
「お話、聞いても良いですか?」と初先生、トラブってる子たちに声掛け。
AがBを押した、Bはそれが許せない。Aは真剣に謝ったが、それでも「聞こえなかった」と許す気配のないB。
Aは2回も真剣に謝ったのに許してくれなくて、それでさらに悲しい気持ちに。
Bは自分の許せない気持ちに折り合いがつかないで無言になってしまっている。
「Aは謝れたんだ。もう良いよ。落ち着いたら遊ぼ!」
「B、Aは確かに謝ったって初先生は言ってるし、許してあげられないかな?どうしても許せないというなら、それはそれで良いよ。ケンカになった時は、許せる時もそうでない時もあるからさ。」
「もし、許せるようになったら、一緒に遊ぼうよ」
そして始まる仮面チャンバラ大会。
「さあ!かかって来なさいヨォ〜!!!」
おどけて、舞って、おバカなオッさん、弱々剣士を演じました。
Aも、Bも、ホントのところはケンカを乗り越えて一緒に遊びたかった。でも、どうしても折り合いがつかない事が、時にはある。
そんな時は、一旦話し合いを打ち切って、体を動かしてみる。忘れてみる。
すると、クソ真面目に考え込んでいたことが、実はとてつもなくどうでも良い事だった(語弊がある書き方ではあるが)という事に気づく事がある。
隙だらけの弱々モードのおっさん剣士のあちこちをポコポコ打ってくる子供たち。
Aも、Bも、いつの間にか一緒にポコポコ打ってくる。
「そうだ、それでいい。心の葛藤、暴れる感情の矛先を剣に乗せろ」
↑この心の声は中二病丸出しですが、実際に、それ迄膠着していた空気はオレンジ色に変容した。
子どもも大人も、その場で完全に「寛解」させなければいけない、そうするべき問題は、基本的にないと思っていて。
焦燥に駆られて「形だけでも解決したようにしたい」思いで解決した(つもりの)ものは、実際には何も解決していない事が多い。
むしろ、双方の心に「納得していないのに無理矢理言うことを聞かされた」という呪いとも言える記憶のしこりを残す。
かといって、起きたトラブルから逃げるばかりで、そのまま忘却し、学びを得ず同じトラブルを繰り返すのも考えものだが。
「大人が先回りばかりして、言うことを聞かせる」指導ばかりしていると、大人の顔色ばかり伺って動く、主体性のない、問題が起きても誰かの助けを待つ人となる未来が待っている。
心のダメージに意識が持っていかれ、学びが薄くなるよりは、なぜそうなったのかな?と考える余地、余白を持てる指導をこれからもしていきたい。
↓過去の朗読作品のリンクです。おうち時間のお供に、よかったらご視聴よろしくお願いします♪
「桜と最後の嘘」(13:04)
「母さんのふり」(07:18)
「親父からのタスキ」(10:47)
【結局、何事も(特に表現は)自分自身との向き合い、から始まる】
どぅも、カイトです。
↑職場にて。子供たちと庭で育てた人参の収穫をしています。
このブログの今月のアクセス数が、300回を超えていました。
大変有難い事です。
心から感謝です。
これからも、私なりにではありますが、有益だったり、興味深い記事を書けるよう工夫を凝らしていきますね。
まあ、肩肘張らずに書ける(読んでもらえる)のがこのブログの魅力の一つでもあるような気がするので、そんな頑張らずに書きますが←
オリジナルの(朗読以外のコンテンツ)動画を作り始めて、早くも一ヶ月が経とうとしています。
昨年から朗読作品制作でスタートしたYouTube動画作成だったり、
仮面製作だったり、
プライベートな俳優としての心身修練だったり(←これは学童での生活も含まれます)、
自分以外の方への演技指導だったり。
YouTube channelのリンクはこちら↓
(良かったらチャンネル登録を、
どうぞよろしくお願いします🤲)
https://youtube.com/user/udaka1216kaito
全てが、他者との合作というよりは(きっかけは自分でなく他者からだけれど)
自分自身で「方法やクォリティ改善の策を練る」割合の高いものでした。
これらを磨いていて、時には俯瞰的に眺めていて思うのは
「結局、何事も自分を知る所から始まるし、そうでなければ目的地がブレたり、結果的に成果を得るまでの道のりが遠くなるな」
という事です。
誰かの知恵を借りたり、動画作品なんかは誰かが作ってくれた優秀で高性能なツールを借りて、思い思いの作品をクリエイトできるけれど。
結局、その「思い思いに」という部分に個性が現れるし、差異が生じる。
そこに魅力がなければ他者の関心という網には引っ掛からないで終わっちゃう。
じゃあどうしよう?なんですが。
過去に見た動画で、誰かが仰っていた言葉が方針の一つになってて。
「まずやってみて考えて、学んで、活用しながらまた走ろう。」なんです。
これは、YouTube動画製作頑張れよーと勧めてくれた幼馴染の友人との会話の中でも出たフレーズでした。
また、走りながら大切にするべき事柄は
「自分が【それ】すること(手段)で、どうなりたい(目的)のか」を
しっかーーーーっり、自覚しながら走る事。
そうじゃないと、無自覚にやっちゃうと。省みないと。
途中でモチベーションが下がっちゃう原因になる
(なんでやってんだろ?とか、つまらないからやーめよ、に繋がる)
なぜ「それ」をする必要があるのかな?
「それ」である必要はあるのかな?
「それ」を通して何を得るのかな?
「それ」、どのぐらいのスパンで成果出せそう?
そして1番は
「それ」、
やってて楽しい?
これが(わたしにとっては)1番大事です。
よく、
「楽しい事だけやってて良い仕事は出来ん。成果を出したいなら感情を、私情を挟むな。」
というアドバイスをされる方を見かけたり、聴いたりするのですが。
私はそう思わない、というか、そういう部分があっても良いけど、割合としては「喜・楽」が多い方が絶対良いよね。
人生を有意義に過ごすんだったら。
我慢、忍耐は日本人の美徳という認識も有るけれど、そうもいってられない世の中になりました。
我慢忍耐をやってる間に、
人生が終わり間際になる。
もっとアレコレやっときゃ良かった、ってベソかくような人生ではなく、
「これで良かったんだ」って、言って散りたいですね。
自己洞察をして、冷静に客観的に、現状把握、対策、結果へのコミットの道筋を判断する。
それが、他者への関わり方への「どれほど配慮が出来るか」「気遣いができるか」の領域にも関係していて、自分が満たされないと他者に対しても冷たい、尊重できない、不遜な態度を取ってしまいがち。
そういう「役」を演じる必要があれば、その引き出しを使えば良いけれど、普段からそういう人だと良好な人間関係は築けない。
築けても、とても時間がかかる。大抵避けられたり、陰口を叩かれるきっかけになる。(そんな人とそもそも関わりたく無いですが、社会には、そういう人は一定数いる)
そういった「自分の課題を人に押し付けるマン・ウーマンの標的、ストレス発散の消耗品」として消費される様な人間関係は、何がなんでも許せないですし、もし実際にそんな状況で生きている方が在るなら、速攻で、全力でその場所、環境から逃げてもOK案件だと思っています。
私たちは「自分がこう在りたいんだ、だからこうやって生きて行くんだ」と感じて良いし、その自分の選択を認めてあげて良いし、そうやって実際に生きてて良い。
↑これは高慢になったり、自分勝手になるという事とは、全く別の話。
なんかテンション上がって、バーっと取り止めもなく書き連ねましたが、ともかく今後も
自分自身のライフを有意義なものにしつつ。
身近な方に、まだ見知らぬ方々に。
楽しい、嬉しい、充実した時間を過ごして欲しいし、その為には自分が何が出来るの?を問い続けたいです。
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DAY5「生き方の根っこにある言葉」
では、また。