Diversion

俳優13年⇒学童の先生2年⇒現在飲食業サラリーマン。珈琲豆焙煎人でもある宇高海渡のユルかったり熱かったりするblogです。記事の内容は随時添削する事が多いので、あなたが訪れた2.3日後には少しずつ変化しているかもしれません。ご了承下さい

今井純さんWS(DAY3~5)の感想とこれから。

ども、海渡です。

今回はとっても長くなりそうなので、本当にお暇なとき、興味が湧いたら読んでください。

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GW中は、この作品に取り組んでいました。

「驟雨」 岸田國士の戯曲です。

 

3〜5日目のWSの内容は

「NEED・トラジックフロー・パブリックペルソナ・自動書記」ってなんぞや?

それをどうやって台本のある芝居に応用するの?

(あれこれ試して)じゃあ実際に人物として喋ってみよう!という流れでした。

 

ここからは、WSの感想の前に、しばし私の自分語りにお付き合いください・・・

 

【出会いと、経験と、得たもの】

 

この作品「驟雨」とは12年前に出会いました。

その時の私は20歳で、俳優養成所におり、約1ヶ月間の「シーンスタディ」というクラスで、譲(ゆずる)という役に挑みました。(ちなみにこのシーンスタディに参加するために、私は成人式に参加しませんでした)

 

そして、その2週間から1ヶ月前後で、俳優として、人間として、自分の未熟さに打ちひしがれる経験をいっぱいしました。

 

具体的にあげればキリがないし秘密にしておきたいのですが、同期の方、友人、家族との、人間関係に悩む日々でした。

 

堪えきれなくなり、人前であるとか、恥や外聞などどうでも良くなり、号泣してしまったほどでした。

そして、その経験から。私の中の芝居に対する見え方、というか捉え方が変わって行きました。

 

芝居は

「怖いもの(嘘はすぐにばれる)」

尊い・神聖なもの」

「人間関係が上手くいかなければ絶対に良くはならないもの」

「演技を構築する上でのプロセス(役作り・最終的にどうなりたい)は、自分が納得していなくても、演出家や共演者に言われたことは守らなければならないもの」だ。

などなど。(これらは、今でも重要な要素であると感じてます)

 

正しく・お客さんにとってどう見えるか・見せるかを重んじることを覚えました。

 

それらの条件・定義付けが、それからの演技研修や、俳優としての仕事の現場で自分を助けてくれることもありました。というか、無かったらここまで俳優としてクリエイティブな現場で仕事をする事は出来なかったでしょう。

時折、反発心が起こり、それを崩したくなる衝動に駆られる経験も数多くありましたが。

 

しかし、歳をとり、様々な作品を読んだり観たり、演じようとする時に。

それが返って、私の演技の「真実」への到達を阻害するものになっていたり、あらゆる芸術、特に演劇に対して審美眼を曇らせる要因の一つにもなっていることに気付かされました。(正しく在る≠優れた俳優である)

 

 もちろん、当時の自分にはそんなことには気づけない・気づかないだろうし、余裕もなかった。その時の周囲の方々には今も感謝の念しかないのですが。

 

その時の環境や状況の中で、自分のベストを尽くした結果、その経験を得たんだなあ〜・・・そうするしかなかったんだなあ〜・・・と。しみじみ感じております。

同時に、手放せそうだったら、もう手放してもいいんだよ、と今までの自分を裁くのでなく、許したり認めるセルフトークをしています。

 

商業演劇を離れるきっかけ】

 

過去の記事で、離れた理由をいくつか挙げたことがありますが

↓この2記事に書いてる。

2つの決断 - Diversion

舞台俳優から児童支援員になった男の話 - Diversion

 

俳優としての視点で、最も主たる理由があります。

 

それは

「ああ、俺はこのままだと自分の演技が嫌いになっていくし、演劇・演技が嫌いになっちゃうなあ」

と、感じ始めたからです。

 

何で嫌いになっちゃうのかという理由を書き連ねると、どうしても今まで関わった舞台や共演者の批判のような形になってしまうし、そう受け取られかねないし、本意ではないので省きますが。(重ねて書きますが、今までの経験と出会いに、心から感謝しています)

 

私の願望だけを書いてみると。

 

「もっと役(同士)の真実に迫った演技がしたい。」

「お客さんに心から「この作品と俳優たちに出会って良かった」と感じてもらう為に。その為の「真実」を体現するためには、小手先の技術や形式めいた虚構(芝居)では駄目だ。もっと効果的な演技の研鑽を積まなくては」

 

心からそう思ったのです。

 

ここまで長々と書いたのは、今回のGW WSで上に書いた記憶だったり、決心・決意のようなものがボコボコと心に蘇ったり、湧き上がったりしたから。

 

そして、これは私が次のステップに移るために、しっかりと向き合うべき影響を受けた事実であり、経験だから。

 

(だからって皆が見れる・読めるブログに書かなくてもいいじゃん、というツッコミはなしで)

 

【WSの感想とこれから】

やっと感想に入ります(笑)

 

役の真実に迫るには、探偵のように台本に書かれてある「具体的な情報・事実」から読み取れるものだけをピックする。台本に書かれていない情報、つまり創造する必要があるもの(オリジナル)は、出来るだけ真実に沿った、観客や共演者の誰もが納得できる、具体的かつ台本の世界に忠実なものにしようね。

 

もし共演者が関わる大切な情報だとしたら、秘密にして置かないで、共有・相談して合意形成しよう(必ずしも全てを同じにする必要はないけど)ね。

 

演じる時には、「感情・感情の流れ・その人らしい振る舞い」を表現(余計なこと)しないで、その人の核となる真実を抱えたまま、相手の人のアクション・言葉に「関わろう(影響されよう)」ね。

これが多くの現場で演出による「ダメ出し」の際に使われる「ただ相手の言葉を人間として聴いてくれ。」という抽象的なセリフの本質。

 

といった、俳優だけで進められる作業の質を上げるプロセスを参加者全員が味わえたし、それをシーンに活かせていたなあ。

もっとワークする時間があって、対面で同じシーンができたらどんなやりとりができるんだろう、とワクワクした気持ちで、最後まで取り組めました。

 

一番の私にとっての収穫は、たったの一週間で、12年前には得られなかった実感を得たこと。

「この戯曲、こんなに面白いんだ」

「譲・朋子・恒子って、こんなに魅力的なキャラクターだったんだ」

「また演りたい」

と思えたことです。

 

 純さんのアドバイスが的確なのはもちろんだけど、「こういえば気づいてくれるかな?これならどう?」と、全てを一方的に説明してしまうのではなく、参加者の気付きのサポートに徹してくれていたのが有り難かったなあ。

次回は8月にあるらしいんだけど、参加したいなあ〜日程合わせて絶対受けたいなあ〜と、逸る気持ちが湧いてるし沸いてる。

 

それまでまた、自己研鑽の日々です。

次回までの課題は山ほどあるので、普段のお仕事を大切にしつつ、取り組んでいきたい。

この記事をどれだけの人が、どんな人が読んでくださっているかは分かりませんが、またいつか表現の場に戻れることがあったらば。その時を一緒に楽しみにして頂けたらと思います。

 

本当に、長々となりました。読んでくださり感謝です。

では、また。