瀬戸内工進曲 83回の前半期を終えて
どうも、海渡です。
早いもので、瀬戸内工進曲が始まってから83回の公演を終え、夏季休暇を迎えました。
その間に俳優の入れ替え稽古や、様々なイベントがあり、更なる成長する機会を頂いて、大変有難いと。心から感じながら日々を過ごしてきました。
少し、お目汚しする表現も混ざってしまうかもしれませんが、この前半期を終えて感じた事を綴ってみたいと思います。
度々私はこのブログで、どう舞台上で存在するか、という事について持論を展開していましたが、それを確かめるように日々の実践に向き合ってきました。
その中で実感を持って言える事は
➀【国語の理解、台本の解釈を台詞で表現する事】
➁【その役の人物として一人称で、自分事として言葉を発する事】
➀と➁には俳優の主観としても、客観的な見え方聞こえ方にも大きな差異があり、それを自覚を持って体現できる俳優とそうでない俳優とでは、これまた大きな差異があるということです。
また、➁が出来ているつもりで出来ていない人もいれば、トライするけれど何らかの要因で出来ない、そもそも分からない人もいるという事。その打率を上げる為の訓練を日常的に行う習慣、より洗練された演技をする為のトレーニングの機会を設けているかで、どんどん表現の厚みに差が出るという事実があります。
では、その見分け方は?
それは俳優の相手役や状況への反応の仕方と、言葉の音色。何よりお客さんの反応で分かります。
お客さんに対して、ここは泣いて頂けたらいいな、笑って頂けたらいいな、という台本上、あるいは演出家の狙いが前提としてあり、それは俳優が「ただそこに生きている」体現が出来ている時にのみ成立します。師匠の言葉を借りるなら、セリフを言うのでなく言葉を喋る、相手役とその瞬間に影響し合う、人間の生理を捻じ曲げる事なく、舞台上で生きることが出来ていれば、お客さんは共感してくれます。
逆に、セリフの解釈や、役の人物を一般化(例えば、普通はこう思う・だからこの行動を取る、リアクションするという考え方、他人事のような捉え方(笑))したり、意図的に、いかにもここはこう感じて欲しいところですよとアピールするような表現をしてしまうとお客さんは興醒めしてしまう。
そういう見せ方、表現が評価された時代もありましたが、二次・三次元でよりリアルな表現が可能となり、その技術をフルに発揮したエンターテイメントが溢れる今日においては、前提として舞台の上ではリアリズム演技を土台とした表現ができなければ、お客さんの共感・同調は得難いという事です。
その為には、演じるではなく、その役の人として生きること。その為の技術を習得する為の方法を日々訓練し、実践すること。それが一番の近道だとあらためて思います。自意識を脇に置いて、他人に興味持つ、という事も大切。
また、演出家や脚本家の演出、その意図に乗っかるだけで、お客さんがどう感じるかは責任取れませんという態度は一番良くないですね(笑)舞台を観にきてくれたお客さんには、基本的に笑いどころでは必ず笑って頂ける、泣き所では必ず泣いて頂けるよう取り組む覚悟があるかどうか。お客さんの反応が悪いことをお客さんや演出家のせいにしないで、自分の力不足を認め、さらに洗練させる為の工夫を主体的に実行できるかが重要なのかなと思います。
俳優という職は本番で必ず良い結果を出す人である事が前提です。結果を出す、と言いますが、結果というのは出す為のプロセスが正しければ必ず出せると私は信じています。
出せないのはプロセスに何か誤りがあるか、アイデアとそれを実現する為の技術が両立出来てないかのどちらか、あるいは両方だと思うのです。
その事に早く気づくことが出来て、その為にどんな方法があるか、それを愚直に続けていけるかが、俳優を目指す、俳優として生きていく全ての人の課題だと実感を持って言えるようになりました。
偉そうなことを書いてますが、これは全て自戒を込めています。
今年は特に芸能の世界でスキャンダラスな出来事が多く、何のために芸をするのかと自問する機会も多かったので、こんな内容になりました。
夏季休暇後、さらに洗練された姿をお客さんに届けたいと思います。では。