Diversion

俳優13年⇒学童の先生2年⇒現在飲食業サラリーマン。珈琲豆焙煎人でもある宇高海渡のユルかったり熱かったりするblogです。記事の内容は随時添削する事が多いので、あなたが訪れた2.3日後には少しずつ変化しているかもしれません。ご了承下さい

続・演技とトランス

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どうも、海渡です。

 

今回は、前回に引き続きトランスの具体的な体験例にフォーカスしてみます。

 

私がまだ新国立劇場演劇研修所で、研修を受けていた頃。今から9年前くらい。

 

その時、私はアーサーミラーの「るつぼ」という作品に取り組んでいました。リハーサル室での試演会を前提とした実習。

 

私の配役はヘイル牧師。

自身の職に対して絶対の自信を持ち、呪術や悪魔崇拝の知識については特に長けている、というような設定。

舞台となる村で起こっている異変を自分が解決してみせる!と意気揚々として村にやってくるところから始まります。

 

しかし、このヘイル牧師の智恵をもってしても、集団心理を巧みに利用した魔女狩りには対抗出来ず、最後にはその事実によって心身共にズタズタにされてしまいます。

 

そんな彼の身体、心の動きにアプローチするエクササイズを、研修生全員で行った時のことです。

 

ただ、その役として空間を歩く、その後ドラマの中の言葉を喋るという行為を行なっている最中に「それ」は起こりました。

 

ヘイル牧師を生きる私の心の中で、私自身の人格でない声が聞こえてきたのです。「お前のせいだ」「何もできなかった」「沢山の人が死んだのだ」という、様々な人の声が反芻されるという現象が起こりました。なんども繰り返される死者、生者からの非難や慈悲を乞う声。それは、村を救えないヘイル牧師の葛藤に、ダイレクトに繋がっているものでした。

 

それから免れた方が良いのか、受け入れ続けて、役の心の動き、そこから生まれる身体の動きを洞察してみた方が良いのかという判断を迫られた私は、俳優としての好奇心から、受け入れ続けてみるという選択をしました。

しかし、あっという間に許容量を超えて、私の心は地面に叩きつけられたガラスのコップのように粉々に打ち砕かれました。

文字通り「ガシャーーン!」という音がしました。

 

気づいたら、私は床に倒れ込み、涙を流しながら「神よ!お許し下さい!私は全身全霊で彼らを救う方法を探したのです!」と心の中で叫んでいました。声にならない声で、嗚咽を繰り返しました。そうする他なかったのです。

人の死を背負うという事。それを軽んじ、智恵をひけらかし、過信でもって物事に取り組むことの愚かさ。それによって全ての物事が自分の望む方向と逆行してしまう恐ろしさ。それを嘲笑され、憐れまれ、非難され。

何もかもが、私の心に巣喰い、蝕んでいく感覚がしました。

 

エクササイズが終わった後、自分に何が起こったのか冷静に判断することが出来ず、放心していました。周りの研修を共にした仲間も、私の事を不思議そうに見つめていました。

 

これが私が強烈に覚えている「トランス」体験です。エクササイズでは見事に「暴走」してしまっていましたし、その後の試演会ではこの体験を完全に活かすことは、その時の私には難しかったです。

今だからわかることですが、俳優は「暴走」する手前まで行く事を許し、かつその先には行かないバランス感覚が必要なのです。そして、エクササイズにしても本番にしても、そのギリギリの淵からしっかりと「戻って来られる」ことが肝要なのだということ。それが出来るようになるまでは、無理をしては危険な状態に陥ってしまうという事を、身を以て体験したのです。

 

しかし、今となっては忘れ難い、貴重な経験として私の心に残っています。

これを利用する、相手役とより深く交流を共にする為に。

まだまだその域に達することは出来ていませんが、少しずつ、出来ているかそうでないか、自覚が出来る領域まで来ています。

 

日々、精進ですね。

 

では、また。